『今徒然』 ~住職のひとこと~

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第54回 ~ミステリーか、数学か~ 

2025-02-10
 仏に仕える身がミステリーを好むのは、やや“不謹慎”のそしりを免れないが、私は少年の頃からミステリー・ファンで、シャーロック・ホームズの『四つの署名』や『バスカヴィルの犬』、また怪盗アルセーヌ・ルパンが活躍する『八点鐘』など、夜を徹して読んだものだ。気がつくと、白々と夜が明けていたことも珍しくなかった。何が当時の私をそれほど惹きつけたのか、自分でもよく判らないが、今も、ガストン・ルルーの『黄色い部屋』など、小説のプロットはつまびらかに思い出せないのに、不気味な迷路に踏み入るようなミステリアスな感覚がリアルによみがえってくることがある。

 クロフツの『クロイドン発12時30分』は、どんな犯行にも、動機とアリバイがあり、どんな完全犯罪にも、不安と葛藤が付きまとうことを描いて、ミステリーとして秀逸しゅういつだった。同じクロフツの『樽』は息もつかせぬアリバイ崩し本格ミステリーで、あまりの迫力に、夏休みの課外授業の課題も忘れ、日がなこれを読み耽って、翌日の数学の課外授業では、幾何の課題が解けないまま、黒板の前に一時間余り立ち尽くした。数学の教師が言った厳しい言葉を今も憶えている。「お前のために、皆の一時間が無駄になるぞ。」教師は、私の不心得を見通していたのかもしれぬ。

 考えようでは、幾何も関数もミステリーに見立てられない訳ではない。後日、くだんの数学教師が、私はもっと数学ができる筈だと語っていたと知らされたが、かぶりだと思った。既に私は数学から逃亡し、ミステリーの境に迷い込んでいた。折りしも、『点と線』『ゼロの焦点』『砂の器』など社会派推理小説ブームを創った松本清張の絶頂期であった。研ぎ澄ました刃で、人間悪そのものを剔抉てっけつするかのようなハード・ボイルドな描写は、多くの読者を惹きつけて止まなかった。松本清張は間違いなく性悪説に立っているのに、悪が滅る時、作者も読者も共に快哉かいさいをあげた。

 アルバイトで受験生に因数分解を教えていた頃、暇潰しに読んだ『不連続殺人事件』という推理小説がすごかった。というより不思議な推理小説だった。作者は『堕落論』を書いた坂口安吾。何のトリックもなく、作者と読者、或いは登場人物の心理的な駆け引きのうらに、殺人者は姿は晦まし、最後まで真犯人が見えない。こんな推理小説は初めてだったが、あれが安吾の最後のミステリーだったのか。文庫本が読みづらくなった昨今は、『ポアロ』や『ミス・マーブル』などアガサ・クリスティのシリーズをDVDで愉しんでいるが、ビーター・フォーク主演『刑事コロンボ』のシリーズが、倒叙形式で切れ味鋭いミステリーの新境地を拓いたことは未だ記憶に新しい。


  ※ミステリーならぬホラーのような日常の些事さじに忙殺されて、掲載が遅れました。重ねてご寛恕をお願い申し上げます。

令和7年 2月10日
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