『今徒然』 ~住職のひとこと~
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第37回 ~洗心修行する~
2023-08-01
「修行」という語を『広辞苑』などで牽くと、「悟りを求めて仏の教えを実践すること。托鉢をすること」などとあります。その通りですが、回答としては如何にも物足りぬ感じがします。古来から、沙門の修行の心得とされるのが「一掃除 二勤行 三学問」という訓えです。とはいえ、生来無精者の私は、この掃除が大の苦手、身の回りの什物や書物に埃が被っていても我関せず、塵や屑などが落ちていても、気にしないで往き過ぎる。私は、沙門としての自分と本来の自分との間にいわく言い難い"隙間"を感じで来ましたが、それは偏に掃除を疎かにして来たからではないでしょうか。
しかし、そう気づいても、掃除は好きになれない。この"葛藤"を如何にすればいいのか。因みに、この葛藤という言葉も、仏教とは切っても切れぬ歴とした仏教語なのです。云わく「葛も藤も共に蔓草。煩悩の喩。又、法門の煩わしきもつれ」とか。如何に修行を積もうと「葛藤断句」の境地に達するのは容易ではないということになりましょうか。さて、葛や藤で"道草"を喰うのは程々にして、洗心としての掃除に話を戻しましょう。修行の第一に、どんな難行苦行も及び難い「一掃除」が掲げられるのは何故でしょうか。仏教聖典に次のような逸話が伝わっています。
釈尊の弟子のなかに、周利般特というもの憶えの悪い弟子がおりました。自分で自分の名も書けず、自分の名を呼ばれても気付かないほどで、お釈迦様の説法も理解出来ない。彼にはどんな修行も無理に思われましたが、或る日、お釈迦様は彼に一本の箒を与え、精舎を隅々まで掃除するように命じます。彼は毎日一心に掃除しました。何年も掃除を続けた後に、彼はお釈迦様に尋ねます。「きれいになったでしょうか?」お釈迦様は「駄目だ」と答えます。それでも彼は黙々と掃除をしますが、何度尋ねてもお釈迦様は"駄目出し"です。この遣り取りに修行の本質があります。
周利般特は、自分がせっかく掃除した所を子どもたちが遊びで汚したことに、腹をたて怒鳴った瞬間、自らの心の穢れに気づいて、悟りを得たとされますが、何より掃除が修行なのは、何処までやっても、何処までいっても、限りが無いということです。言ってみれば、修行は無限ループの繰り返しに似ていて、修行者はそのエンドレスの環の中にいる。掃除を修行に喩えるより、掃除そのものが修行だと弁えるべし。床を洗い磨くは、己の心を洗い磨くのと同じこと。そんなことが、虚心に受け容れられたら、沙門某が永い間託ち続けた心の"隙間"も滅却出来るのかもしれません。
※エピローグ:法華経『寿量品』の「一塵一却」という句は、ならば精神と物質の究極的空前絶後のクリーニング(浄化)の喩えではありますまいか?
令和5年 8月1日