『今徒然』 ~住職のひとこと~

今徒然 記事 一覧

第53回 ~病を養う~ 

2025-01-01
 仏教では、人生の佇まいを称して『生老病死』と呼ぶけれど、この生老病死のステップには、前後左右、四方八方いたるところにいろんな時限リスクが仕掛けられていて、また思わぬ陥穽にも陥りやすい。例えば、老いの傍らにはたいてい病気が同棲している。逆に言えば、この病を養うのが老境に入ったものの務めだと云っても過言ではない。私の友人仲間も寄るとさわると、足腰や膝を傷めたの、心筋梗塞や循環器の疾病、果ては癌など、さまざまな病気を酒の肴に、自らの経験や傷みの話で盛り上がり、挙句の果てに居酒屋の深酒に沈没する。老人はどいつも始末に負えない。
 
 かく言う沙門(それがし)も、まぎれもない老境をさ迷いつつ、実はいたるところで老害をまき散らしているかもしれない。近頃、身近な者から、言葉遣いが乱暴でぶっきらぼうになったと言われるが、そういう者の感受性が奈辺にあって、少しは老いを労わる気持ちがあるのか、逆に問いたい。老人は誰も、リア王みたいに孤独で見棄てられ、荒れ果てた精神の荒野をあてもなく彷徨う身の上だ。誰もこの境涯を望んだわけではない。老いたくて老いた訳ではない。が、気がつくと、四肢の力は()え、肌つやは悪く、目は効かなくなている。『生老病死』は、人生のリアルで残確な現実だ。

 「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と風狂の禅僧一休は詠んだが、一休禅師が真の禅僧たる所以は、常識に縛られないその自由な発想にある。それ故、彼の言動は、時に人の心の虚をつき、常識からはみ出した悪ふざけのように聴こえる。因みに「病を養う」という表現も、日常あまり用いないが、仏式火葬の(みぎり)、『下炬文(あこもん)』などで見られる用句である。病或いは老いの苦しみを客観化するには、これを肯定し、時に養っているかの如く見せかけ、悪友をデトックスするように付き合うに若しくはない。病を養うとは、むしろ一つの生きる方便かもしれぬ。

 西欧哲学では一種のペシミズムとして捉えられがちな、仏教のかような『生老病死』の厳格な公式も、日常的常識を覆すアンチ・エイジングの智慧が入り込む余地がない訳ではない。一方、キリスト教の場合など、人間は生まれながらに“原罪”という免れ難い宿命を背負って生れてくる。磔刑(たくけい)に架けられたイエスの断末魔の姿に祈りを捧げ、生涯をかけて贖罪(しょくざい)するのが、キリスト者の信仰だとするなら、これこそ深刻な信仰の姿だといわなばならない。キリスト教では、よきにつけ悪しきにつけ、神と個人の関係から生じる一種の緊張感が信仰の力を支えているかのようである。


  ※P.S. 12月中、暫し長考に入っておりました。ご心配をおかけした向きには、何卒ご寛恕を被りますよう。新年も改めてよろしくお願い申し上げます。

令和7年 1月1日
TOPへ戻る