『今徒然』 ~住職のひとこと~
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第58回 ~捨てると棄てる~
2025-09-16
捨てると棄てるは、似て非なるもの、或いは全く違う行為であるように思う。例えば、「喜捨する」と「唾棄する」とう二つの言葉は、いかにも対照的である。喜捨するは、檀信徒が進んで寺社に浄財を寄進するということだが、唾棄するは、唾を吐き捨てて顧みないという意味だ。遠藤周作の小説に『わたしが・棄てた・女』というのがあるが、この棄てたという言葉には、主人公が女に対して抱く複雑な心情と嫌悪感がそのままこめられている。この場合、作者は明らかな意図をもって、棄てたという文字を用いている。わたしは、女を棄てた。文字どおり、塵・芥のように。それだけのことだ。
一時『断捨離』という言葉若しくは行為が、老若男女を問わず人々の間で流行った。これはもともとヨーガの思想であったものを、やました某という人が提唱し、推奨したものだ。私の身の周りでも、これに傾倒した者が少なくない。私は、啓発本の類はあまり読まないので、直接内容には触れないが、この歳になって、身辺を見回すと、なるほど、身に積まされる。酒や塩気の多いものを断つことは常々かかりつけの医師から言われることだ。無駄なものを不要なものを捨てないのは怠惰なだけだ。心身のストレスや執着から離れるのは、これまた至難の業である。一心不乱に断ち、捨て、離れねばならぬ。
一方、棄てる方には、やはり嫌悪や軽蔑などが入り混じった悪感情がつきまとう。下世話に言えば“棄糞”というやつだ。この状態が昂じると、拳を握りしめ、他人の胸ぐらを掴んで暴力に訴える者もいる。さもなければ、身を投げる、つまり、自ら生命を棄てる行為に及ぶ者もいる。これを、所謂「自暴自棄」という。棄てるとはとどのつまり、行きつく先が自暴自棄なら、誰ももうこれを止められない。自らを棄てる者を、どうしたら救えようか。放棄といい、廃棄といい、また投薬という。どの言葉も、絶望と滅びと暴力の臭いがする。だから、棄ててはならない。人生を棄ててはならない。
「捨てる神あれば、拾う神あり」とい諺をご存知だろうか。一方に見捨てる人がいれば、他方で救ってくれる人もいる。世間は広く、人の価値観は様々だから、くよくよ悩むことはないとい訓えだ。つまり、世の中そう捨てたものではない、ということになろうか。捨てるという言葉には、どこかポジティブで肯定的なイメージが湧く。『空也上人絵詞伝』に極めつきの一文が見える。「山川の末に流る橡殻も身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」つまり、身を捨てる、死ぬ覚悟であれば、活路も開ける、という<死中に活を求める>の心境である。「捨てる」の真骨頂と云っても過言ではない。
令和7年 9月16日


