『今徒然』 ~住職のひとこと~

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第61回~作礼而去~

2026-04-25
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 いきなリだが『佛説阿弥陀経ぶっせつあみだきょう』の終わリは、次のような句で閉じられている。「作礼而去さらいこに」これを天台式に漢音で誦むと、《サクレイジキョ》である。礼をなして、去リぬ。ほどの意味であろうか。つまリ、極楽往生の説法を聴いた舎利仏をはじめとする諸々の弟子たちが、釈尊に礼拝して立ち去る様子が窺われる阿弥陀経の完結部分である。恥ずかしながら、沙門某、阿弥陀経を読誦し始めてから暫くこの経典について、思いもよらぬ誤解をしながら、これに気づかず、檀家さんから、やれいいお経だの、読経の声がいいのと誉められると、これを真に受けて、いわゆる“増上慢ぞうじょうまん”に陥っていた。

 さて、西方極楽浄土の荘厳は、釈尊が法華経を説いた霊鷲山りょうじゅせんの佇まいとはほど遠く、浄土経典そのものが、大乗仏典の世界のなかで、他から独立した特異な阿弥陀仏国を構築しているかのように見える。七賓しっぽうをちリばめた堂塔伽藍、金砂を布きつめた池畔に咲く大輪の蓮華、時をおいて降リ注ぐ花々の驟雨しゅうう、そして、天女の姿をした迦陵頻伽かようびんがが天を舞い妙音声で時を告げる。これらは、須らく極楽浄土のオーナーたる阿弥陀如来がマネージメントする世界である。釈尊は阿弥陀如来に成リ代わって、これを語リ伝えている。阿弥陀経の冒頭に、法華経同様「如是我聞」の句が据えられる所以である。

 即ち、阿弥陀経は、観音経(晋門品第二十五)のように偏祖右肩へんだんうけんして教えを乞う弟子たちの質問に答えた形式の経典ではなく、釈尊自らが、阿弥陀如来の化身となって、弟子たちに極楽浄土の荘厳功徳を説法する“無問自説”の形式の経典である。この仕掛けが、愚かな弟子某をして根本的な混乱を惹き起こし、阿弥陀経内部の子細刻妙の描写について、あたかも阿弥陀如来自身が説法をされているかのような錯覚を抱いた。抑々そもそも「如是我聞」を前提として、『佛説阿弥陀経』を今一度誦み返さねばならぬ。歴史のなかに埋もれたこの匿名の「我」があればこそ、大乗炒典全体が成リ立つ訳だ。
 
 阿弥陀経の結句「作礼而去」に話を戻そう。阿弥陀如来は、最期臨終の時、来迎そらいこうしたまい我らを救いい給う。『観無量寿経』にのたまわく「光明遍照 十方世界 念佛衆生 摂取不捨せっしゅふしゃ」光明は遍く十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨て給わず。人は此の時、今生で出逢ったすべての人々を顧みて寿ことほぎ、礼節を尽くして立ち去るのだろうか。阿弥陀経を締めくくるこの「作礼而去」の文言には、 無常の巷を往来するものとして、仏教徒が心得るべき礼拝と感謝の姿が示されているのではあるまいか。そして、何ものにも何ごとにも、作礼而去すべき終わリの時は来るのだ。一無法界いちむほうかいとでも言おうか。

                           
令和8年4月24日

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