『今徒然』 ~住職のひとこと~
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第5回 ~是心是仏~
2020-12-01
風狂の禅僧、一休禅師のエピソードが伝わっています。旅の途中、村人に修復した地蔵尊の開眼供養を頼まれ、快諾した禅師は、何やら意味不明の歌を詠んだ揚げ句、こともあろうに地蔵尊に小便をかけて、立ち去りました。村人が呆れるやら怒るやらパニックに陥ったのは、想像に難くありません。禅師の真意もしくは事の真偽はともかく、『一休さん』が常識破りの自由奔放な、もしくは破天荒な"傑僧"だったことが窺えます。
因みに、在家の仏壇開眼で読誦される『開眼供養の表白文』には、こうあります。「如来の真身は想い難し。故に形像を像画し、之に託して以て、真仏に通ぜしむる」と。また曰く「末代罪濁の凡夫は相を立てて心を住せしむるすら尚得るこ能わず。如何に況んや、相を離れて事を求めんや」如来の姿は見えないので、形像で象って、仏の実体に通じようとする。罪に穢れた我等は、形を造っても仏の心は入れ難いのに、形なくして何事ができようか。縷々愁嘆します。もし、その場に一休禅師がとおりかかったら、"喝!"一喝されるかもしれません。
さて、本来、『念仏』とは、心に仏の姿を観じることをいいます。私どもは、念仏を称えながら我知らず目を閉じることがありますが、実はこの時、心に仏様の姿を観じようとして無意識に瞑目合掌するものと考えられます。"観じる"とは、ただ姿を見るというだけでなく、感応すること、つまり、我がうちなる仏と相通じて融合することです。これを『感応道交』といいます。開眼供養で「感応道交、月の水に印する如く、永く影臨し給わんことを」冀う所以です。
唐代の僧で、天台山の近くに住した寒山は、「心を廻らせば 即ち是仏 外頭に向かって看むること莫かれ」と詠みました。心の方向を内に向ければ、それそこにこそ仏がある。外に向かって仏を求めてはならない。仏法修行は、我がうちなる仏に出逢う旅、つまり表題の『是心是仏』を探し求める険しい道のりにも例えられるのではないでしょうか。
行く末も 来し方もなし 去年今年 / 丈 生
令和2年12月