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『今徒然』 ~住職のひとこと~

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第6回 ~摩訶不思議~

2021-01-01
 幼い頃、満天の星空を見上げていて、不思議な感覚に陥ったことがあります。この星空の彼方の宇宙には、限界というものがないのだろうか。そもそも限界とか、際限がないというのはどういうことだろうか。到底子どもの理解を超えた[?]に、私の感覚は忽ち奇妙な混乱をきたして、これは誰にも尋ねなてはいけない、自分で解答を見つけなければならない、とんてもない"秘密"に遭遇したような実に悩ましい気持ちになったものです。

 その後、私はその時のいわば"アメイジング"な体験(感覚)を記憶のポケットの奥に押し込んだまま成長して、たまに思い出すことはありましたが、別に深刻に考えることもなく、青春時代を過ごしました。或るとき、何かの本で「素粒子には、時間がない」という一文を読んで、いきなり嘗てと同じような不思議感覚が蘇りました。私は当時、人文科学的な概念でしか時間を考えられなかったので、咄嗟に「え、それはないだろ」と口走ってしまったほどです。
 
 こういう個人的な不思議体験を、『摩訶不思議』という仏教語で一括りにしてよいかどうか、いささか判断に迷うところですが、その後、私は縁あって比丘びくとして大乗妙典に接する機会を得て、私が直感的に『摩訶不思議』と感じていたものが、あながち見当違いではないということに気付かされました。直感しかできなかったものが、経典のあちこちには、言葉としてちりばめられていたのです。
 
 例えば、葬儀や法要で読誦する法則文に、『尽空法界じんくうほうかい』とか『尽虚空遍法界じんこくうへんほうかい』とかいう言葉があります。仏の心が偏在する無限の世界、宇宙というような意味になりましょうか。これを唱えたとき、私は永い間抱えていた[?]が解消されたような気がしました。また、法華経の『寿量品じゅりょうぼん』の『一塵一却いちじんいっこう』という法句には、例の素粒子と時間の問題について、今迄の発想をくつがえす啓示を得たような想いがしました。いずれも、私の裡で直感が「無上甚深微妙法むじょうじんしんみみょうほう」を介して、認識に変わる摩訶不思議な"ビッグバン"の瞬間だったのかもしれません。
 
 令和3年1月
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