『今徒然』 ~住職のひとこと~

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第12回 ~『如是我聞』~

2021-07-01
 一口に仏典といっても、原始仏典から、大乗仏典、密教仏典など万巻のボリュームがあり、我々が日常読誦しているお経は、大乗仏典のほんの一部に過ぎません。そして、その多くが『如是我聞にょぜがもん』(是の如く我聞けり)という同じ語句で始まっています。つまり、「お釈迦様の教えをこのように、私は聞きました」という前置きですが、沙門としてお経を読誦しながら、或る時、この『如是我聞』の"我"とは、いったい誰か? という疑問にぶつかりました。
 
 およそ二千五百年前、釈尊が入滅される時、弟子の阿難尊者あなんそんじゃに、あらゆる経典の冒頭に『如是我聞』の語を記して、他の外道の聖典と区別せよと、言い遺されたと云われています。ということは、『如是我聞』の"我"は、阿難尊者ということになりますが、釈尊はその教えを文字として遺していません。コミュニケーションの手段が限られていた紀元前の混沌とした時代に、阿難はいかにして釈尊の教えをすべて記憶暗誦して、後世に伝えたのか。お釈迦様の優秀な一番弟子とはいえ、今に伝わる『如是我聞』の"我"は、ほんとうにすべて、阿難尊者その人なのだろうか。恐れ多くも、凡庸な沙門某に降って湧いた更なる謎でした。

 釈尊の入滅後、多くの遺弟のうち、約五百人の僧たちが、釈尊の説いた教えについて、記憶と知識を持ち寄り『結集』が開かれたと伝えられています。その座長であったのが、釈尊の十大弟子の一人摩訶迦葉まかかしょうでした。卓越した編集能力を持った迦葉を中心に、弟子たちは、それぞれ記憶した釈尊の教えを口から口へ伝承し朗誦し、補足と削除を繰り返し、最後に座長が、これをまとめて皆で合唱して、お経の原典となるものが整えられたと云われます。これが、初めてパーリ文の聖典となるまでには、更にそれから数百年を経なければなりません。

 現在、我々が読誦する大乗経典は、四世紀頃の西域の僧、鳩摩羅什くまらじゅうや唐代の玄奘げんじょう三蔵法師の二大訳聖によって、日本にもたらされた漢訳によっています。したがって、『如是我聞』も漢訳語です。時代と国境を超えて、仏典の編纂、翻訳、普及に携わった数知れぬ名もない僧侶、仏弟子やその結集があります。『如是我聞』は釈尊が阿難尊者に与えた"お墨付き"ともいえますが、仏教徒として、仏弟子として、釈尊の教えに向き合う者すべての『信仰の証』としての"誓いの言葉"とも言えるのではないでしょうか。
  
 令和3年7月
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