『今徒然』 ~住職のひとこと~
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第15回 ~無常であること~
2021-10-01
小説家井伏鱒二は、干武陵の『勧酒』の「花発多風雨 人生別離足』(花開いて風雨多し 人生別離足る)を和訳して、「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」と謳いました。本来の訳文の矩を超えた小説家ならではの職人的"意訳"です。親しい友人と訣れの酒を酌み交わす哀しさと淋しさが、無常観を伴って胸に逼るものがあります。だが、彼はただ別れを嘆いているわけではない。「人生別離足」とあるとおり、どんな人生にも別離はあるものだ。だから、この杯を干したら、花を散らす春風のように爽やかに淡々と別れよう。「さよならだけが人生だ」から。
仏教徒であるなしにかかわらず、私たち日本人の感性やものの考え方には、古来より今に到るまで仏教的無常観が通底しています。様々な別離、死、滅びゆくものへの哀感といとおしさ、人生のいたる処で、私たちは『諸行無常』の姿に出逢い、時に涙することもあります。『生者泌滅 会者常離』は、単に無常を喩える対句ではなく、誰もが自分の人生で一度ならず経験する厳しい現実です。どんな理屈や道理をもってしても退けることができない、否応なく受け容れざるを得ない厳しい現実が『諸行無常』という道理なのです。
無常であることを人生の道理として、引き受けること。そのために、本来比丘沙門の身の上にある者は、木石の如く動じない心を養わなければならないとされます。とはいえ、鎌倉時代の歌人西行法師は「心なき身にもあわれは知られけり――」と詠じました。出家して人の心を捨てた此の身にも、知らずもののあわれの感情が込み上げてくる、という詠嘆です。もののあわれの美意識にも、影身に寄り添うようにそこはかとない無常感が漂います。無常であることを引き受け、『諸行無常』を生きるには、むしろしなやかな心と感受性が求められるのではないでしょうか。
天台宗の『例時作法』の『無常偈』には「諸行無常 是生滅法 消滅滅巳 寂滅為楽」(諸行は無常なり 是れ消滅の法なり 消滅滅し巳りて 寂滅を楽と為す)とあります。通常、漢音阿弥陀経を読誦する前に微音で称えます。この『無常偈』を五七調でかな文字に置き換えたのが、『いろは歌』だと伝えられています。「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」 嘗て子供の手習いにひろく用いられた『いろは歌』は、古人の智慧と強かな対応力を示す、最も有名な"読み人知らず"の傑作といえましょうか。
皎月や 叢雲千切れゆく 雨上がり / 丈生
令和3年10月


