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『今徒然』 ~住職のひとこと~

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第32回 ~自由ということ~

2023-03-01
 「かえりなん いざ 田園まされなんとす なんぞ歸らざる」 中国東晋時代の詩人陶潜とうせんあざな淵明えんめいの『歸去来辞きょらいのじ』の冒頭句です。何度か役所勤めを経験した陶潜が、四十歳になって、県令として召し出されましたが、わずか八十日で、職を辞して故郷に戻る決意をします。上司におもねり、時に忖度し、不条理な命令に従うことを潔しとしない陶潜の、むしろ面目躍如といったところでしょうか。また『飲酒』と題した詩に見える「菊を采る東籬とうりの下 悠然として南山を見る」は、漱石も『草枕』の中でこれに触れ、自由な隠遁生活の理想郷として、いたく共感する名句です。
 
 自由とは、一つの価値観か。概念か。或いは、それがなくては生きていけぬ空気のようなものだろうか。あらゆる価値観から解放されることが、自由の自由たる所以であるなら、自由もまた単なる価値観ではないということです。陶潜が官職も世俗のつきあいや交誼もすべてなげうって、隠遁したように、一切を捨て去ってこそ、自由に戻れるような気がする。すべて捨てることでしか、人間は真に自由になれない。したがって、自由に生きるとは、場合によっては、命懸けの選択、決断を要します。そして、誰も自由がそれほど価値あるものだとは想ってもみない。

 フランスの実存主義哲学者J.-P.サルトルの『存在と無』の命題は、「自由は状況のうちにしか存在しないし、状況は自由によってしか存在しない」というものです。主語と述語を入れ替えて、パドラックスをリフレインしているように聴こえますが、意識存在としての人間にとって、自由と状況は不即不離の関係で、常に絡みあっている。人間(意識)によって生きられる現実世界(状況)は、常に自由に付き纏われ「自由であるべく呪われている」。人間は<状況としての自由>の只中にあって、企て≪アンガジュマン≫によって不断に乗り越えられねばならない存在であるとされます

 さて、大人のお伽噺のような陶淵明の世界と、二十世紀の深刻な実存主義の談義は、似ても似つかぬ異次元の話のようですが、陶潜の「歸りなん いざ」の詠嘆えいたんは、やや酒気帯びかもしれぬが、図らずも<状況としての自由>によって促された存在の選択といえなくもありません。但し、陶淵明の田園生活は、一切の拘束から解放されたこだわりなき自由世界ですが、一方、サルトルは存在意識として人間は「自由という刑に処せられている」として厳しい実存的観点に立脚します。つまり、自由()生きるか、自由(を)生きるかは、文字通りあなたの自由ということになります。


令和5年 3月1日
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