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『今徒然』 ~住職のひとこと~

今徒然 記事 一覧

第33回 ~ジュリエット・グレコが聴こえる~

2023-04-01
 ♪Sous le ciel de Pari S'envolve une chanson Hum Hum / パリの空の下、歌が一つ飛び立つ
 学生時代、新宿の紀伊國屋書店に、フランス大学出版局刊行で、日本では白水社で翻訳出版されている『クセェジュ叢書そうしょ』という新書のシリーズがありました。16世紀のフランスのモラリスト、モンテーニュの"Que sais-je?"「我、何かを知る?」すなわち「私は何を知っているのか?」というフランス語の反語表現に因んでいます。今でもその数冊が、青春の形見の如く、本棚の片隅に埃を被っています。そういえば、あの時も、私はノンポリのプチ・ブルよろしく『象徴主義』か何かのクセェジュ新書をひもといていたのかもしれません。  

 ♪Sous le ciel de Pari Marchent des amouerex Hum Hum / パリの空の下、恋人たちが歩いてる
 大学構内には長い緩やかな石畳のスロープがあり、道幅数メートルの両端は少し高くなって学生たちのベンチ代わりになっていました。その青春の往来のど真ん中で、いきなり「<我、何をか知る>より<我、誰をか知る>の方が意味がある」などと云われたら、私ならずとも、それこそ誰もが困惑するに違いありません。横浜から通っている同級生の、パロディというにはシリアスで意味深な呟きでした。それから、彼は私に同じクラスの或る女子学生について語り始めました。彼の意図するところが漸く呑み込めたような気がしました。

 Mais le ciel de Pari A son secret pour lui / でもパリの空には、人に言えない秘密がある 
 一歳年上の彼女は聡明で、芯の強い女性でした。当時キャンバスを占拠し、我が物顔で跋扈ばっこしていた過激派『革マル』との激しい論争でも、臆することがありませんでした。その姿が、彼には、優しくもはがねのようなマドンナ、ジャンヌ・ダルクのごとく映ったのかもしれません。私は、彼女には既に意中の男性がいるのを知っていたので、それとなく彼に伝えました。しかし、間もなく、彼は彼女に告白して、"玉砕"しました。ともあれ、それから、何事もなかったかように時は過ぎて、卒業を迎え、就職し、やがてそれぞれ家庭を持ちました。

 ♪Quand elle lui sourit ll met son habit blue / 彼女が微笑めば、パリの空は青い服を着る
 彼女は夫との間に三人の男子を儲け、その後暫くして離婚しました。そして、十数年前雨繁く紫陽花の頃に亡くなり、数年前に離別した夫も他界しました。一方、彼も再婚しましたが、某新聞社の取締役にまで昇進しました。数年前、昔の同級生が集まる機会があった折、彼は嘗て彼女に告白したことに触れ、彼女が亡くなったことを知り、彼女が葬られたお墓を訊ね歩いたそうです。結局、墓は見つかりませんでした。墓前で掌を合わせたかったのか、失った恋に花を手向けたかったのか。成就しなかった想いほど、永続する生命を持つものはないということでしょうか。


※エピローグ;ジュリエット・グレコの"Hum Hum"は、何時聴いても快い爽やかなセーヌの河風を運んで来るかのようです。因みに、<我、誰をか知る>は Qui est ce-que je connais? がより正確なようです。

令和5年 4月1日
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