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『今徒然』 ~住職のひとこと~

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第35回 ~『疑う』ということ~

2023-06-01
 「我思う、故に我在り」(羅:cogito, ergo sum)とは、17世紀のフランスの哲学者デカルトのあまりにも有名な命題です。「思う」とは、むしろ「疑う」という思惟的態度です。すなわち、思惟する存在として、全世界を疑いの天秤に掛けること。非合理的なもの、真実らしく見えるが偽りのもの、少しでも疑いのあるものを排除し、累々たる事象の残骸の上に『方法的懐疑』の旗印を掲げて、真理に迫ること。近代哲学は、この『方法的懐疑』をモチベーションとして、幕開いたといっても過言ではありません。デカルトが、近代合理主義の"元祖"とあがめられる所以です。

 さて、悪ふざけのつもりではありませんが、「我思う、故に我在り」を、仮に「我思う/我在り」としたら、どうでしょう。 〈思惟する我〉と〈我在り〉の間に"裂け目"があったら、命題は成り立たないばかりか、合理主義そのものにも思わぬほころびが生じかねない。デカルトが、身体は精神を容れる器に過ぎないとして、心身二元論を展開したことは、よく知られるところです。身体は、思惟という精神活動を第一原理とする存在の埒外にあるもので、何らの根拠を示すものではない。つまり、コギト命題は、心と身体は別物という危ういバランスの上に立脚しているというわけです。

 未完成を補完するものは何でしょう。コギトが、文字通り疑いなく人間存在の確固たる証であるために、そもそものコギトの出所由来とその動機付けを、デカルトは創造主たる神に委ねた形跡があります。用意周到に何度か『神の存在証明』という論証を起こして、完全かつ無限なるものに接近を図りますが、いかなる人間的アプローチを拒むのも、これまた神の"属性"です。しかも、存在証明は、"不在証明アリバイ"と同様、意図的になるほど苦し紛れになるのが常です。疑いが、神に向けられなかったのは、偏に時代の精神的背景と要請によるものと考えるのが必然でしょう。

 疑うという精神活動が、人間存在の最後の砦になるなら、この砦は事実上孤立無援と言わざるを得ません。〈思惟する我〉の認識主観たるコギトは純粋な孤独を経なければならない。例えば、ここにきて生成AIやchatGPTの弊害が社会問題化されていますが、SNSによる情報の拡散には多数の意図的インフルエンサーが介在する可能性があります。コギトがコギトである所以は、ほかならぬ孤独な妥協なき疑いの精神を貫くことにあります。『方法序説』 discours de la méthodeの表紙を飾るデカルトの肖像は、その背景に色濃い孤独のシルエットを投影しているかのようです。


令和5年 6月1日
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