『今徒然』 ~住職のひとこと~
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第48回 ~卒業名簿~
2024-07-01
1970年代以降,ミュージック・シーンに新しいページを開いて来たシンガー・ソング・ライター中島みゆきの『時代』という曲によく知られた次のような歌詞がある。~そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ~ 時代は建物を造り、橋を架け、塔を建て、街の営みと時代の心を創る。それらが滅びるのも、まためぐる時代の只中だ。停まることのない時間の経過と価値の変遷を時代と呼ぶなら、人の生命は尚停まることがない。人の一生も、時代の流れの波間に浮き沈む泡沫の如し。花裡を渡る風のように爽やかに生きたい。
昨年、百二十五周年記念とかで、高校の卒業者名簿が送られてきた。意外だったのは、前回十数年程前より、冊子のボリュームがかなり薄くなていたこと。繙いてみると、初めから100頁ほどは既に鬼籍に入った故人の氏名が整然と並び、それ以降“団塊の世代”までは、氏名と住所、時々職業欄に記載がある程度。我々最後の団塊の世代は、750頁中100頁あたりに、13クラスの氏名・住所が窮屈そうに掲載されている。ほとんどが現役を退いているので、消息は知る由もないが、どのクラスにも数名の物故者がいる。昔の面影を追いかけながら頁を繰れば、胸の奥で時おり細波が立つ。
卒業者名簿に勿論ストーリーはないが、掲載された氏名の分だけ、物故者も含めて、それぞれの人生のストーリーがある筈だ。歓びも不運もある筈だ。頁を繰れば、脱け殻のような氏名の文字列が、宙に舞い上がり、時に閃きながら消滅するかのよう。ポスト・モダンの記号論の術語を借りれば、シニフィエ(signifié)を失くしたシニフィアン(signifant)の乱舞とでもいおうか。意味や概念から解放された表象たちの戯れとは、こういうことだろうか。小一時間ほども、名簿を繰って夢中で眼で追っていた。冊子を閉じても、消えない記憶がある。既に遠く過ぎ去った昔日の風光と面影たち。
私は、大学のプチ同窓会以外は、高校や中学の同窓会やクラス会には、出席したことがない。会いたい友人や同級生は何人かいるが、郷里に足が向かない。郷里を出てからの永い時間に復讐されているような気がすることがある。屈折した想いは、嘗ての友人にも、誰にも通じないだろう。「ふるさとは遠きにありて思ふもの(……)よしやうらぶれて異土の乞食となるとても帰るところにあるまじや」と謳ったのは室生犀星だったか。ふるさとの追憶は、ノスタルジックなストップ・モーション、どんなエラーも消すことは出来ない。どんなイレギュラーも描き直すことは出来ない。
令和6年 7月1日