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『今徒然』 ~住職のひとこと~

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第51回 ~荼毘葬送~ 

2024-10-01
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 ひとは必ず死ぬ。生者必滅。『白骨之御文』にのたまわく、「死すれば白骨のみ残りて野辺にあり(……)死して白骨をあらわすのみならず、今身の内に白骨あり。手をもって撫で触るに何ぞ、疑がはん。」そう云われれば、誰もが今身の内にもっている死の欠片かけらがひときわリアリティをもって、実感される。生命が帰結するところ須らく死ということになるが、フランスの哲学者が言うように、死は生と相反するものではなく、死は生の一部であって、生命のなかには既に死の胚芽が内蔵されている。因みに、小説家の村上春樹も、そんなようなことを何処かで書いていたような気がする。

 死後、亡くなった人の死は、いかように成就されるか。仏教では、先ず枕経(臨終諷経りんじゅうふぎん)を上げ、仏弟子としての戒を授けられる。その際、「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」の偈文を微音で称え、剃刀の儀を行うが、大相撲などで見る、勝ち力士の手刀に通じるものがある。剃度式の後は、通夜式である。天台宗では、漢音阿弥陀経を読誦し、故人の極楽往生を期すが、宗派によって異なり、禅宗では『修証儀』、浄土真宗では『正信偈』などが読まれる場合もある。昔は、終夜文字どおり夜を徹して故人をお護りしたらしく、今も通夜式と呼ばれる所以である。

 よくみる訃状ふじょうなどでは、葬儀告別式という語が見られるが、告別式というのは業界用語で、仏式には、そういう語はない。天台宗では、法則(啓白)を主にした内引導式と役僧の庭儀式及び導師の引導・下炬あこからなる外引導式によって、執り行われるが、葬儀法式はさりながら、昨今は長寿や少子化の影響もあり、ほとんどが家族葬である。これもいわゆる時流にのったスタイルといえるかもしれぬ。立派な院号つきの戒名を所望される方も、ほとんどが導師一師、役僧三役片鉢以下の形式で行われることが少なくない。とはいえ、形式が質素でも、心まで質素になってはならない。

 葬儀式が終わると、骨揚げ待って中陰初七日が行われる。近親者がお香を手向け、拙寺では、ここで導師が荼毘葬送だびそうそうの化儀が如法にわったことを報告し、今、故人がどのような状態にあるか。七・七日の満中陰まで、亡き人の魂は次に往く場所を求めて、宙を彷徨っている。つまり、姿形は見えないが、心はまだ残っている。この中途半端な状態に決着をつけてあげるのが、遺族親族の四十九日までの務めであり、心構えである。亡者の死は、家族親族が供養の誠で尽くすことでしか成就されない。覚路を真っ直ぐに進み成仏するように、供養回向は亡者に送る応援なのである。

令和6年 10月1日
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