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『今徒然』 ~住職のひとこと~

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第3回 ~『食』について~

2020-10-01
 『味の濃淡を問わず』は、禅僧、特に修行僧の『食』との向き合い方ですが、修行僧にとって食事は、命を保つのに最低限のものをいただく修行でもあります。したがって、「美味い、不味い」は問うべからず。与えられたものを、感謝して、残さず、作法どおりいただく。潔さと厳しい緊張感が伝わってくるような斎食さいじきの風景です。
 
 とはいえ、修行僧の斎食と私どもの日常の食事とは、いささか趣きを異にします。共通するのは、"むさぼらない"ことと感謝の気持ちを忘れないことでしょうか。感謝の気持ちがあれば、自ずと貪ることもなくなります。長いバラモンの苦行の末、苦行には意味がないと知ったお釈迦様が、村娘スジャータ―が供養した乳酪をって体力を回復したように、『食』は決しておろそかにしてはならないものです。
 
 幼い頃、私は病弱で、しょっちゅうお腹をこわしていました。両親は共働きでしたから、母方の祖母が、幼い私を養育してくれました。まだ戦後の名残が残る当時、祖母はオムライスやメンチボールなどを作ってくれました。食の細い私に、食への興味を開いてくれたのは、祖母の心のこもった手料理でした。ほくほくとした里芋煮のこうばしい匂いなど、今も忘れられません。なかでも、程よい大きさの酢飯の白身魚の握り鮨は、生涯食べたもののなかで、あれが一番美味しかったのではないでしょうか。
 
 思いがけず幼少期の食の遍歴にまでさかのぼりましたが、そういう私は今図らずも僧籍の身にあります。とかく『味の濃淡』にこだわりがちな拙僧は、"グルメ"ならなぬ"食いしん坊主・・・・・・"とでも云ったところでしょうか。ともあれ、今日も感謝して手を合わせ、心をこめて「いただきます」。
 
 
   ふる里は 葉音さやけき 風の村落むら  / 丈 生
 
令和2年10月
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