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『今徒然』 ~住職のひとこと~

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第38回 ~餓鬼に施す~

2023-09-01
 毎年八月の酷暑の時季、全国の寺々では、施餓鬼会せがきえの法要が営まれ、其の家先祖代々の祖霊を追善供養すると共に、三界万霊さんかいばんれい殊に無縁法界・無縁社会のおびただしい餓鬼に施食せじき供養して、これを救済しようとする仏教行事が行われます。これを盆施餓鬼といい、関東地方などでは七月、その他の地方では旧盆の八月にこれを修行することが多いようです。年忌法要や祥月忌など常々供養は時宜に応じて行われますが、施餓鬼会が毎年同じ時季に行われるのは何故でしょうか? そもそも無縁法界で苦しむ餓鬼とは何か? また何故、我々が無縁のものを供養し、救わねばならないのか?

 浄土真宗などでは、ほんらい盆施餓鬼会は行いません。亡くなれば皆極楽往生する訳ですから、三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)に堕ちる者もなく、したがって、無縁の餓鬼も存在しないことになります。解りやすく明解でシンプルな教義が、大衆に受け容れられた所以です。だが、無縁の餓鬼はほんとうにいないのでしょうか。生きながらにして無縁社会の中で孤立するもの、また永い歴史のなかで忘れ去られた名も無き無縁の万霊、これを救うことが盆施餓鬼の本来の趣旨ではなかったでしょうか。してみると、施餓鬼会は大規模な供養のボランティアのようにも思えてきます。

 近頃、檀信徒さんにお葬式があると、その後暫くして、“墓終はかじまい”とか“仏壇終い”とかが話題になります。また、実際にそのように申し出る方もあります。霊園の立派なお墓を閉じ、仏壇を処分する。少子化やその他の事情で家そのものが絶えることも少なくありません。止むに止まれぬ事情は重々理解できますが、人々の現世と後生ごしょうを覆う無明むみょうの闇の底知れぬ深さ。『無縁社会』の到来を肌身で感じます。無縁社会を象徴するのが、孤独死や引き取り手のないお骨です。縁無くして、この世に生をけた者は、誰もいない筈なのに、いつしか孤立無援の途を辿ることになったのでしょうか。

 俗に、「縁なき衆生は度しがたし」というが、むしろ縁なき衆生を済度するのが、まさに盆施餓鬼の意図するところです。無縁の餓鬼を救うために、過去世と現世と後生に張り巡らされた“セーフティ・ネット”とでも言いましょうか。先祖代々先亡精霊しょうれいの追福を祈り、その功徳を無縁法界の餓鬼にも振り向ける。『自行化他じぎょうけた』の典型的な考え方に基づいています。『仏説盂蘭盆経』の木蓮尊者の逸話が、施餓鬼会の基になったと伝えられますが、旧盆八月の施餓鬼会は、ご先祖を迎え弔い、また有縁無縁一切霊等がえにしと出会いを求めて集い合う大慈大悲の交歓日とも言えましょうか。


令和5年 9月1日
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