名古屋の天台真盛宗 戒珠山光明寺
天台真盛宗総本山西教寺は、宗祖・真盛上人が説かれた「円戒念仏」の宗義を実践する不断念仏の根本道場です。当山光明寺は名古屋で唯一の真盛仏法布教の拠点であり、西教寺直轄の末寺になります。
天台真盛宗は、円戒国師真盛上人所立の戒称二門双修の立場から、檀家・信徒を教化、善導することを宗旨とし、滋賀、三重、福井におよそ300ヶ寺の寺勢を有し、その他東京、京阪神、名古屋、横浜、金沢、北海道に別院や直轄寺院があります。
当山は開基以来代々、真盛上人の言葉を布教の礎としてきました。「昔は霊山にありて法華と名づけ、今は西方にあって阿弥陀と名づく。濁世末代には、観音と名づく。」つまり、釈迦牟尼仏を拝んでも、阿弥陀如来を念じても、観音菩薩に祈っても、いずれも久遠の仏様を拝むことには変わりないという考えです。当山に天台真盛宗の檀家の方々以外に、他宗派の数多くの人々が集われて、声も心も同じうして称名念仏される所以です。
円戒念仏は長い歴史のなかで磨かれ鍛えられ、「不断念仏」として多くの人々に今日まで脈々と受け継がれています。折りしも、令和3年には、総本山西教寺にて『不断念仏相続十九萬日大法会』が厳修されました。
西教寺と明智光秀
もともと美濃国土岐の一豪族明智氏の出身であった光秀が、天下布武を掲げ天下統一の大号令を発した尾張の織田信長に、その才覚と器量を認められ、歴史の表舞台に登場するまでには、いろいろな紆余曲折がありますが、そのいきさつは、2020年~21年にNHKで放映された明智光秀を主人公とする大河ドラマでつぶさに描かれています。
歴史的事実として、西教寺と明智光秀の関りが明確に確認できる最初の出来事は、1571年の比叡山焼き討ちです。焼き討ちに信長の命令とはいえ直接関わっていたと考えられる光秀ですが、翌年からの復興(西教寺庫裡再建・仮本堂建立)に大きく寄与しています。西教寺が延暦寺より早く復興に着手することができたのは、光秀の信長への並々ならぬ尽力があったことが伺えます。
以後、光秀は1573年の供養米寄進や、1576年、妻・煕子の西教寺での葬儀、その後、総門・梵鐘等の寄進なども行い、西教寺との絆を深めていったと考えられます。西教寺は、坂本城主であった光秀の庇護のもとに復興・発展を遂げたと言っても過言ではありません。
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