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『今徒然』 ~住職のひとこと~

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第40回 ~煩悩即菩提~

2023-11-01
 「取りかえしがつかない」即ち、もはややり直すことができないという、いわば人生慙愧ざんきの念は、人生そのものへの“懺悔”にも通じるかのようである。還暦を過ぎよわいを重ねるにつれ、その想いはいやがうえにも募って来る。もはや生き直すことは出来ない、人生はことごとく自業自得で、我が身独りで引き受けねばならないのは当然の報いである。悔いのない人生などあるのだろうか。誰も人生の何処かに何かしらの瑕疵かしがある筈だ。「我が人生に悔いなし」と言い遺した人のことを聴くことがあるが、沙門それがしには、如何とも判断がつきかね、むしろそのこと自体が“煩悩の種”になりかねない。

 人生を全うした故人を冒涜するつもりは無いが、人は皆、須く煩悩成就ぼんのうじょうじゅ凡夫ぼんぷである。「昨日も空しく、今日も徒に生死しょうじちまたに迷う」底下愚縛ていげぐばくの凡夫である。もし、あの瞬間とき、あの街角を逆方向に曲がっていたら、人生は変わっていたかもしれぬ。時にそんな有らぬ想いに囚われるのも、偏に、貪欲とんよく瞋恚しんに愚痴ぐちの三毒に迫られた我が身の因果の成れの果ての姿である。因って、『懺悔文ざんげもん』に曰く「我昔所造諸悪業がしゃくしょぞうあくごう 皆由無始貪瞋痴かいゆむしとんじんち 従身語意之所生じゅうしんぐいししょう 一切我今皆懺悔いっさいがこんかいさんげ 」(我れ昔より造りし所の悪業は、皆無始の貪瞋痴に由る 身口意より生ずる所なり 一切を我れ今皆懺悔したてまつる)

 『懺悔文』は、天台宗をはじめほとんどの宗旨宗派で、お経の冒頭に唱えられる。仏様のご法前で私は、これまでになして来た諸々の罪業をすべて懺悔いたします、という誓いの唱句偈文げもんである。これが無ければ、何も始まらない。仏法の本来のモチベーションがここにあるといっても過言ではない。過去の過ちを悔いること自体が、煩悩の煩悩たる所以だが、「煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい」という大乗仏教の教えの通り、尽きることのない人々の煩悩は、そのまま悟りを求める心に通じるとされる。つまり、煩悩がなければ菩提もない。懺悔はその矛盾する而二不二ににふにのプロローグと云っても差し支えない。

 天台宗では『法華殲法ほっけせんぽう』という古来より伝わる法要方式があるが、これは、罪過を懺悔する法要次第である。拙寺では中陰明けの尽七日四十九日に、これを読誦し、満中陰を迎えた精霊の滅罪生善めつざいしょうぜん後生菩提ごしょうぼだいを願い、同時に亡き人の覺路かくろ安らかならんことを祈ることにしている。在家の法要にはやや長過ぎるうえに漢音で難解なので、一部を省略して、普通経段は漢音『安楽行品あんらっけいひん』を読誦し、これに代えて『寿量品じゅりょうぼん』『提婆達多品だいばだったほん』『神力品じんりきほん』『晋門品ふもんぼん』などを呉音で読誦することもある。法華経要品はいずれも、読むもの聴くものの心身を清め、力を与え、邪気を去るかの如くである。


令和5年 11月1日

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