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『今徒然』 ~住職のひとこと~

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第41回 ~Walls & Eggs — 壁と卵~

2023-12-01
 ここ連日、国際社会はイスラエルのガザ地区攻撃で大きく揺れています。誰も、無辜むこの市民を巻き込んだこの残酷な戦争を、悪と知りながら止めることが出来ない。パレスチナ・ガザ地区への攻撃は今に始まったことではない。今日まで何度も繰り返され、その度に子どもを含む多くの弱者が犠牲になっています。2008年のガザ地区の紛争はまだ記憶に新しいところです。この翌年「エルサレム文学賞」を受け、現地に招かれた村上春樹のスピーチが印象に残っています。「もしここに硬く大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」

 ここで“卵”というのは、ガザ地区攻撃で殺害された多くの市民や子どものメタファーであり、“硬く大きな壁”とは、イスラエルのみならず、歴史的、国際社会的にこの状況を創り出した国・社会制度などのシステムを指すと考えられます。小説家が嘘をつくことで、小説を書くならば、人間が創り出した制度や組織などのシステムもまた虚構かもしれない。そのシステマティックな虚構の壁に阻まれ、砕けやすいもろい卵のように、個人の生命はいとも簡単に失われる。当然のことながら、授賞式に参加したイスラエルの識者の中には、彼のスピーチを冷ややかに聴いた人もいたようです。

 人種的・宗教的差別に苦しめられ、第二次世界大戦のナチス政権下で文字通り<ホロコースト>の迫害に遭ったユダヤ人と、しばしばオスマン帝国の侵略の脅威を受け、また欧州列国にも欺きおとしめられた屈辱の歴史を持つアラブ人は、歴史的に民族が辿った途にどこか共通点があるように思えてなりません。憎悪で綴られた歴史の記憶は、容易にあがなえません。やるか・・・やられるか・・・・・の生命懸けの争いが<パレスチナ>なら、パレスチナは人類が犯した最大の歴史的誤謬ごびゅうといえるでしょう。小説家が、個人の生命の尊厳を、硬い壁にぶつかって砕け散る卵にたとえざるを得なかった所以です。

 深い奥行きのある空間に独特の叙情が漂う村上作品を、イスラエルの人々が読んだことがむしろ奇跡のように思えます。何か忘れ去っていたことを、不意に思い出したのでしょうか。『ノルウェイの森』の読みながら、実は私もデジャヴじゃないかと我を疑う経験をしたことがあります。70年代の大学構内キャンパス、立て看板の前で演説している活動家、談笑しながら往き過ぎる学生たち、何の変哲もないこの同じ風景の中で同じ空気を呼吸していたような気がする……いつも教室の後ろにひとりぽつんと座っていた寡黙な村上青年と、言葉を交わした記憶はほとんどありません。



令和5年 12月1日

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