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『今徒然』 ~住職のひとこと~

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第44回 ~『長安の春』の夢~ 

2024-03-01
 中国の春節は、延べ90億人ともいわれる民族大移動の季節である。各地の交通機関、駅、バスターミナル、空港は旅行客で溢れかえり、人の波が人の波を呑み込み、大群衆となって、あたかも巨大な生き物がうごめいているかのような趣きである。圧倒的な迫力に圧し潰されそうな恐怖すら覚える。これらの群衆の一人ひとりに人生の歓びや苦しみがあり、欲望や怒りがい交ぜなって、物凄い熱量を帯びて沸騰している。中華民族の底知れないエネルギーを感じるが、どこにも華やかさらしきものがない。むしろ、一触即発で阿鼻叫喚あびきょうかんの巷と化す危険性を孕んでいるかのようである。
 
 ここに孟浩然や王維、李白、杜甫などの詩人を輩出した盛唐の時代の文物や人々の生活を描いた名文がある。作家井上靖が“座右の書”とした石田幹之助博士の『長安の春』である。『敦煌とんこう』や『西域物語』などを書いた井上靖にとって、この書はなくてはならぬ辞典であり、ガイドブックに等しいものであったらしい。そこには、千三百年以上前の古都、長安の城市の景観がまるで観て来たように、鮮やかに生き生きと描かれている。国際色豊かな朱雀すざく大路の賑わい、ひときわ壮麗な帝城のいらか、寺院の層塔は薄紫の影に包まれ、城市内外の曲江運河には夥しいジャンクが舳先へさきを並べる。
 
 当時の長安は、世界最大の国際都市であり、都人に交じって、遠く日本、新羅しらぎ渤海ぼっかいから渡来した人々、シルクロードの涯てからやって来た紫髭しぜん緑眼の胡人や駱駝らくだいた異民族のキャラバンなどが往き交い、大唐の都大路はさながら歴史的ロマンに富んだ華やかな東西文化交流の要衝であったろうと想像される。更に『長安の春』を渉猟しょうりょうすれば、様々な建築物や街路、丘陵や池畔、杏園きょうえんに遊ぶ麗人の繍羅しゅうらの衣装、唐廷のきらびやかな儀仗ぎじょうまで次々とリアルに立ち現れて来る。当時、長安都人が好んでワインを嗜んだというエピソードも、文化の水準の高さを窺わせて興味深い。
 
 長安の都人は、こよなく花を愛したことでも知られている。殊に暮春の時節、牡丹を愛玩あいがんすることひとかたではなく「牡丹妖艶人心を乱し、一国狂うが如く金を惜しまず」と云われたように、長安の市民はこの時季牡丹の花に憧れ、都中が気もそぞろに牡丹の花に酔い痴れて日々暮らしたという。“傾城けいせい”のもとが牡丹の花というのは、唐一代の栄華と頽廃たいはいを象徴しているようで、いかにも興趣をそそられる。因みに、今どこに行きたいか問われれば、迷わず盛唐の頃の長安に行きたいと答えるだろう。出不精では人後に落ちぬ一沙門の、見果てぬ『長安の春』の夢、夢の中の譫言うわごとである。


令和6年 3月1日
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